今参画しているプロジェクトの延長線上で、船を指揮する船長とお話する機会に恵まれた。船長(以下、Tさん)は非常に奇策な人物であり、乗客だけでなく船員も含めて、船に乗るという機会自体を楽しめるように心を配る方であることが会話の端々から伝わってきた。
たとえば、
≫どんな船に乗っても、今の船がどれほど真っ平に比べて傾いているかを考えてしまう
≫30年以上船に関する仕事をし、船長となってもなお、船酔いをしてしまうことがある
こうしたTさんの話から、乗客を運ぶ船を運行するのには、非常に繊細な視点が必要なのだと考えさせられた。それこそが船長に必要な素質の一つなのだろう。一方で、その繊細さゆえに今でも船酔いをしてしまうのではないかとも感じた。
今回はTさんとの会話の中で特に印象的だった「思い込み」の力について触れたいと思う。時はTさんが船員学校の学生だった頃に遡る。船に乗る際は船酔いが心配になるものだが、船員学校の学生といえども例外ではないそうだ。「右脇腹を下にして横になると酔いが良くなるから、船酔いした者はそれを行うといい」とTさんは教官からこのように教わったそうだ。
実習中もやはり船酔いに悩む学生が続出し、彼らは教官の教え通り右脇腹を下にして横になるようにしていたという。数日間お航海の後、実習が終了した。その後の授業で教官が「私が言った船酔い対策を実行した人はいるか、効果はどうだったか」と尋ねたところ、多くの学生が「効果があった」と答えたそうだ。私もその話を聞きながら、「これは実際に役に立ちそうだ、メモしておこう…」と思っていた。しかしその矢先、Tさんから「実はあれば嘘だったんだよね」と聞かされ、思わず拍子抜けしてしまった。
「でもね、この話には続きがあってね…」とTさんは話し始めた。学生時代、Tさんが北海道でフェリーに乗ったとき、ひどく船酔いをして顔色の悪い老夫婦がいたそうだ。Tさんは「船員学校で学んでいる者なのですが…」と、教官から聞いた“嘘”のアドバイスを伝えたという。すると、その老夫婦の体調はみるみる回復し、すっかり元気を取り戻したそうだ。老夫婦は孫の顔を見るためにフェリーに乗っていたらしく、とても感謝され、お土産として持ってきていた大きな缶入りのお菓子セットを渡そうとまでされたが、荷物が増えてしまうからと丁寧に断ったそうだ。Tさん自身「嘘だと言えるタイミングを逃してしまった」と、当時が少し戸惑った気持ちもあったそうだ。
Tさんは「たしかに船酔いは気持ちの面も大きい」と語ってくれた。ととえば、船酔いのときに横になって安静にしていると、船の揺れそのものではなく「今、自分が船酔いをしている」という事実ばかりに意識が向いてしまいがちだが、視点を少し変えて捉え直すことが重要だという。
「船が揺れていて船酔いしているときは、赤ん坊のころにゆりかごで揺られていた経験や、親にあやされていたときの感覚ってこうだったのかな、と考えてみる。そうすると、今のつらさではなくその思いに意識が向き、船酔いのことを忘れてしまうこともある」と教えてくれた。まさに“病気は気から”だと感じる。
もちろん、こうした方法が全員に効くわけではなく、効果を実感できない人もいる。しかし、自分自身の「思い込み」がこれほど良い方向に働く可能性があることには驚かされた。老夫婦の船酔いも、Tさんの言葉を信じたことで体調を回復できたのは事実だ。
この話を聞き、私はふと青山学院大学の原監督が駅伝で選手を応援する際に“嘘”を織り交ぜているというエピソードを思い出した。本当は追いつけそうもない距離にいる選手に対しても「あと○秒差だから、あと5秒ペースを上げてみよう!」と声をかけるそうだ。選手は視野が狭くなっている中で「あと少しなら頑張れるかもしれない」と思い込み、パフォーマンスを引き上げることができるのだ。
心理学の世界でも、プラセボ効果や権威効果、ピグマリオン効果といった現象が知られている。人は無意識のうちに周囲や自分自身の言葉を信じ込み、それが行動や結果に大きな影響を及ぼすのだ。実際に、権威のある立場の人や信頼できる人の言葉からもたらされる「思い込み」の効果は、私たりが想像する以上に大きいと実感した。
一方で、根拠のない情報や過度な楽観を無批判に信じさせてしまうことには注意が必要だ。それは誤った判断やリスクにつながる恐れもある。だからこそ、事実や誠実さを土台としつつ、相手の状況や気持ちに寄り添った“前向きな思い込み”をうまく織り込むことが大切だと思う。
ビジネスの現場でも、リーダーやマネージャーの前向きな言葉が、チームや個人のモチベーションやパフォーマンスを大きく左右することがある。もし身近に何かに挑戦していたり困ったりしている人がいたら、このような心理的メカニズムを理解し、相手にプラスとなるような言葉や“”思い込み“を意識的に伝えてみることで、結果としてパフォーマンス向上や前向きな行動を促す効果が期待できるのではないかと思う。
2025年5月